春花は以前よりも静のCDを聴く日が多くなった。静のピアノは春花の癒しになっている。むしろ今この音源が失くなってしまったら春花の心は崩れてしまうほどに、脆く壊れやすくなっている。静は春花の心の支えなのだ。そんな日々の中、また母から転送される形で郵便が届いた。それを目にした瞬間、春花の期待は一気に高まる。『次も来て』以前、静に掴まれた左手首が急に熱を持つような感覚を覚え、春花ははやる心を抑えながら封を開けた。ペラリと入っている一枚のチケット。 手紙も何もない、無機質な一枚の紙。それなのに春花にはずしりと重みを感じるものだ。「すごいよ、桐谷くん」ほう、とついた感動のため息は、久しぶりに春花の心を明るくさせた。静はどんどんと実績を上げ、自分の地位を確立している。そんな静の活躍に感化され、春花もまた、失いかけていた自分の在り方を見直していた。「私も頑張らなくちゃ」春花は携帯電話をぐっと握ると、ずっと言い出せずにいた言葉をゆっくりと文字に書き起こした。【もう別れよう】ずっと高志との関係を悩んでいた。嫌だと思いながらもずるずると高志のペースに流され、完全に自分の気持ちを押し殺していた。そんな情けない自分ともさよならしたい。春花は震える手で送信ボタンをタップする。すんなり別れてくれたら万々歳だ。だが高志のことだからねちっこく文句を言うかもしれない。いろいろと心の準備をしていると、案の定携帯電話が鳴り出した。春花は大きく深呼吸してから耳に当てる。『別れるってどういうことだよ?』怒り口調なのは想定していた。だから春花は冷静に言葉を紡ぐことができる。「……もう嫌なの。束縛されるのもつらい。いつも私は高志を怒らせちゃうし。別れるのがお互いのためだよ」『はあ? 何言ってんの? まさか好きなやつでもできたのか?』「違うよ」『春花がいないと俺は死ぬよ』怒り口調から、急に弱気な声になる。春花は惑わされないようぐっと堪えるが、妙な罪悪感に苛まれる。だがそれを打ち払うかのように首を横に振った。「……大丈夫だよ。今までありがとう」それだけ言うとそっと通話を終了し、深く息を吐き出した。 携帯電話を握りしめるその手はカタカタと震えてしまう。まずは一歩前進といったところだろうか。春花は緊張から解かれたかのようにベッドに身を投げ出した。
◇静のコンサートはまたしても特等席が用意されていた。期待に胸を膨らませながら、春花は舞台を見守る。ここ数日、高志のことでいろいろありすぎて疲弊していた春花だったが、今日のこの日を楽しみにしていた。むしろこのコンサートを励みに日々を過ごしていたといっても過言ではない。やはりグランドピアノに劣らず存在感を放つ静は、スポットライトに照らされてより一層輝いて見えた。流れる旋律は耳に心地良く響いていく。(ああ、いいなぁ)静の音楽に癒されるだけではなく、弾いている姿は春花をうずうずとさせる。(私もピアノ弾きたいなぁ)静の演奏する姿を見ていると、高校の時のあの音楽室での思い出が鮮明によみがえってくるのだ。あの時が一番楽しくて輝いていた。春花はじんわりとした気持ちに思わず目頭を拭った。コンサートが終わるとロビーが人で溢れかえり、しばらくすると黄色い歓声が上がった。(何だろう?)出口に向かって自然と列が出来上がり、春花もその波に乗った。珍しくお見送りがあるのだ。お見送りとは、こういったコンサートの終演後、演奏家がお客様の元へ姿を現し言葉を交わしたりできる貴重な場である。一人ずつ丁寧に対応する静を遠巻きに見ながら、優しいところは昔と何も変わっていないのだと春花は嬉しくなった。
春花の番がようやく巡ってきた。前回のコンサートのときは上手く話せたのに、今日は静を前にすると何も言葉が出てこなかった。薄暗闇で再会したあの日とは違い、明るい場所での対面は春花の心をドキッとさせる。きっちりとセットされた髪は清潔感に溢れ、整った顔がより一層引き立つ。スラリと伸びた手足は長く、タキシードは彼のためにあるのではないかと思わせるほどよく似合っていた。「演奏、素晴らしかったです」何を言おうかと散々考えていたのに、結局出てきたのはありきたりな言葉だった。「ありがとうございます」対して静も淑やかに笑みを称えながら手を差し出す。そろりと手を差し出せば、両手でふわりと包み込まれるように優しく握る。その温かさに息が詰まるほど、春花は囚われて動けなくなった。「桐谷く……」「はーい、進んでくださーい」周りのスタッフが列に声をかけ、その声に促されて人の波が動く。春花はハッと我に返りすぐにその場を去ろうとしたが、握られた手はぐっと握られて離れない。「山名、楽屋で待っててくれないか?」「え?」「話がしたい。名前を言えば通すように手配してあるから」静は春花だけに聞こえる声で囁くと、何事もなかったかのようにすっと手を離した。
大きくて温かな手の感触の余韻がどうか消えないようにと、春花は先ほど握られた右手を胸に抱える。ドキドキと高鳴る心臓の音が伝わってきて、胸がぎゅうっと締めつけられた。「あの……山名春花と言います……」「はい、山名様、伺っております。こちらへどうぞ」「あ、はい」静に言われるまま近くのスタッフに名前を告げると、いとも簡単に楽屋へ案内された。先ほどまでの人の波から外れて、廊下も楽屋もしんと静まり返っている。部屋の中にはドレッサーが何台も設置されており、近くのコート掛けには静のものであろう上着が掛けられていた。春花はドレッサーで自分の姿を確認する。コンサートということでなるべくフォーマルに近い服で来たけれど、鏡に映った自分の姿はキラキラと輝いていた静に比べて何だかみすぼらしく見えてしまう。(何の話をするんだろう。こんなことなら差し入れでも持ってくるんだった)後悔しても始まらない。(でも、桐谷くんとまた会える)静が来るまでの間、期待と緊張で気が気ではなくなり、春花は無駄にウロウロと部屋の中を歩き回った。やがて扉が開いた。「お待たせ、山名」入ってきた静は上着を脱ぎ、ワイシャツの首元を緩める。髪の毛をクシャっと掻き上げると乱れた髪がさらりと流れ、その色っぽさは春花の胸をドキドキさせるには十分すぎるほどの魅力だ。「あ、えっと、単独公演お疲れ様。本当にすごいね」「今回も来てくれてありがとう」「こちらこそ、チケットありがとう」「いや、山名に来てほしかったから」その言葉に嬉しさを覚えながらも、春花は精一杯平常心を装う。「何だか申し訳ないよ。今度はちゃんと自分で買うね」「いや……ところで、今日は彼氏は大丈夫?」「うん、もう別れたから」「そう?」「うん」高志とはあれからまったく連絡を取っていない。高志から合鍵を返してもらわなくてはいけないと思ってはいるが、まずは別れることができて春花は安堵していた。しばらく不安定な気持ちが続いていたが、日々の仕事の忙しさやレッスン生とのおしゃべり、そしてなにより静のピアノが癒しとなり、春花のメンタルは日に日に回復している。「なんか吹っ切れた顔してる」「そうかな?」「この前彼氏と電話してる山名は何か怯えたようだったから」静は心配そうに春花を見つめた。その視線は春花の心を震わせる。「……そんな風に見えた?」
「山名のピアノ、久しぶりに聴きたいな」「恥ずかしいよ。桐谷くんとは雲泥の差なんだから」「いいじゃん。ピアノの先生やってるんだろ? 今度見学に行かせてよ」「ええっ。うちの店に桐谷くんが来たら大騒ぎだよ」「なんで?」「なんでって、こんな有名なピアニストだもん。一曲弾いてほしいって皆が寄ってくるよ」「別に構わないけど」「ええっ、本当に?」「本当に」「きっと店長が両手を挙げて喜ぶよ」春花は、興奮して目をキラキラさせる葉月を想像して、一人クスクスと笑う。そんな春花に静は少し意地悪な笑みを浮かべた。「その代わり、山名のピアノ聴かせてよ。それが条件だ」「え、う、うん」ドキドキしながら頷くと、静は携帯電話を手にする。「じゃあ山名、連絡先交換しよう」「あ、そうだね」いそいそと春花も携帯電話を取り出し、二人は初めて連絡先を交換した。高校生のとき、初めて携帯電話を持った春花。静も同様に携帯電話を持っていた。だが二人とも友達とやり取りするよりも、家への連絡手段としての要素の方が大きかった。平日は毎日放課後に音楽室で過ごす。遅くまで二人でピアノを練習し、帰宅後にあえて連絡を取ろうとは思わなかった。もちろん、卒業前に連絡先を交換したいとは思っていたが、お互いに聞く勇気も機会も逃したまま今に至っている。あれからもう五年経っているのだ。お互いに社会での経験を積んで、ごく自然と連絡先の交換をすることができたことに静は安堵し、そして春花は胸をときめかせた。
足取り軽くアパートに戻った春花だったが、玄関を開けた瞬間に体が強張った。春花は電気を消した状態で外出したはずだが、部屋の明かりは煌々と灯り玄関には脱ぎ散らかした男物の靴がある。まさかと思っているうちに、奥から不機嫌そうな顔をした高志がのっそりと現れ、春花は一歩後退りをする。「……どういうこと?」「やっぱり浮気か」「何言ってるの?」「どこへ行っていた?」「コンサートだけど」「そんなお洒落していくかよ」高志は春花の服装を指摘する。今日の春花はフォーマルに近いワンピースにパンプス、そしてイヤリングを付け、髪は編み込みのアップスタイルでパールのついたバレッタを付けている。ピアノのコンサートだからといってドレスコードしなくてはいけない決まりはなく、カジュアルスタイルでもちろん入場できるのだが、静に会えるという気持ちで普段より服装に気を遣ったことは否めない。春花はバツが悪い気持ちになるが、そもそも高志とはもう恋人ではないのだから罪悪感を感じる必要はないのだ。春花は強い意思を胸に、高志を睨んだ。だがそれ以上に冷たい視線が春花を射ぬく。「……私たち別れたんだから、合鍵返して」「ああ、俺達別れたんだから、お前が出ていけよ」「え……待って。私の家だけど? あなたは寮があるじゃない」「はあー。二十八までしか入れないんだよね。だから結婚して寮を出ようと思ってたけど、お前にあんなこと言われちゃなぁ」「結婚?」「そう。春花と結婚しようと思って寮は解約した。だからここに住むことにした」「……何言ってるの? 意味がわからない」「春花は俺と結婚する気ないんだろ?」「ないよ」「だったらこの家は俺が住むから、お前が出ていけって話」「そんな……。だって、出てくにしても荷物とか」そういう問題ではないのだが、高志の強引で強気な態度に圧されて春花はどんどん弱気になっていく。高志は面倒くさそうに髪を掻き上げると、親指で部屋の奥を指差した。「確かにお前の荷物は邪魔だよな。じゃあ明日俺が帰るまでに荷物なくしておけよ。荷物があったら捨てる。お前がいたら追い出す。わかったか、くそ女」「え、ちょっと……」高志の勢いに圧され、春花はそのまま玄関を出た。と同時にガチャンとドアが閉められる。そしてあてつけかのように乱暴にチェーンが掛けられる音が聞こえた。閉じられた玄関の
翌日、幸いにして夕方のレッスンまで仕事はない。春花は荷物をまとめるためにアパートへ戻った。そろりと鍵を開けると、そこはもぬけの殻だ。あんなモラハラ高志だが、彼は仕事にはちゃんと行くことを春花は知っていた。仕事中の高志の態度は全く知らないが、きちんと出勤するということは最低限のルールは守っているのだろう。「……はぁ。本当に意味がわからない」なぜ自分が出ていかなければならないのか。考えれば考えるほど理不尽でたまらないが、高志とこれ以上争う気は微塵も起きなかった。しかも高志は合鍵を持っているのだ。我が物顔で彼が入り浸る家には、もういたくない。だが、新しい家を探すにも日数が必要だし、なによりまとまったお金がないと動けない。「はぁー」ため息しか出てこない。 考えると高志に貢いでばかりだった。大企業勤めで寮暮らしをしている高志は、お金がないわけないのにいつも金欠だと言っていた。入った給料はスロットで使い果たし、春花にプレゼントひとつしたことはない。幸い銀行のカードは財布の中、パスワードは教えていない。まずは自分の財産に安堵し、荷物の整理を始めた。元々そんなに私物は多くなく、荷物くらい簡単にまとめられると思っていた。だが、いざ整理し始めるとどうしたらいいかわからなくなる。荷物が少ないといっても、さすがにカバンひとつでどうにかなるものでもない。「どうしよう」一日ですべてをこなすのは無理だ。夕方からはレッスンが入っている。それを休むわけにはいかない。春花はその場にペタンと座り込み、荷物を前にして途方にくれた。
ポロ、ポロ……と涙が溢れ落ちた。泣きたいわけじゃない。ただ悔しくてやりきれない想いが春花の心をぐちゃぐちゃにする。電子ピアノをスタンドから降ろしてカバーを付けソフトケースに入れる。両親が離婚して引っ越しをする際、ピアノを売ることになったあのときの気持ちとよく似ている。今回ピアノは売らないが、突然訪れた出来事に頭がついていかない。喪失感が春花を支配し、理解することを拒絶しているようだ。――ブブブ、ブブブ、突然携帯電話が震え出し、春花はビクッと肩を揺らした。恐る恐る手に取ると画面には【桐谷静】と表示されており、春花は涙を拭ってからそっと通話ボタンをタップする。「……もしもし」『山名? 昨日イヤリング落としてないか? 楽屋の忘れ物で届けられてたみたいなんだけど』「え? あ、うん」『山名?』「うん」『泣いてる?』「……ううん」『嘘だ』「……桐谷くん」穏やかで優しい静の声は春花の耳にたおやかに響き、やがて体全体へ浸透していく。その安心できる声に、一度止まった涙が再び溢れ出した。『どうした?』「うっうっ、桐谷くんどうしたらいいか……」『……山名、今どこにいる?』静の声色が緊迫したものに変わる。静にこんな話をしていいものかと一瞬躊躇ったが、それよりも今は誰かに話を聞いて貰いたいことの方が気持ちが大きい。春花は泣きながら現状を伝え、事実を口にするたび悔しさが込み上げてきて時々嗚咽が漏れた。『山名、ゆっくりでいい、落ち着いて』耳に響くその声はしっとりと優しく、すがりたい衝動に駆られた。
「ああそうだわ。この機会にあなたに文句を言いたかったのよね。確かにあなたはすごい。この若さで海外公演を大成功に修めた。ピアニスト桐谷静は立派よ。でもプライベートの桐谷静のことを私は知らない。ニュースや週刊紙で報道されてることしか知らないわ。なあに、あの三神メイサとの熱愛報道」「あれは……」「違うって言いたいんでしょう? そうかもしれないわ。だって私の知ってる桐谷静は、間違いなく山名さんを愛していたもの。三神メイサに心変わりするなんてあり得ないと思う。だけどね、その報道を聞いたときの山名さんの気持ちがわかる? それに対してちゃんとフォローはしたの? してないなら、あなたは山名さんではなく、三神メイサを取ったのよ。まあ報道なんてあることないこと書くからね、誰も鵜呑みになんてしないでしょうけど。でも日本で待ってる山名さんには、とんでもなくつらいことだったでしょうね」「そんな……」静は絶句した。春花のことを愛している。きちんと言葉にもしていたつもりだった。けれどそれは本当に春花に伝わっていたのだろうか。もっともっとできることがあったのではないだろうか。春花のことを一番に考えていると思っていたのは独りよがりで、結局ピアノのことが一番だったのだろうか。一番に考えなくてはいけないものを、間違えたのかもしれない。
葉月の葛藤が、静への質問に代わる。「……どうして居場所を知りたいの? あなたたち、別れたんじゃないの?」春花からは静と別れたと聞いている。だからきちんと二人で納得しあった上での別れだとばかり思っていたのだが。静の悲痛な表情に、それは違ったのだろうかと葉月は察した。「別れてなんかいないです。俺が海外に行ったのも春花が背中を押してくれて……」「そっか、あなたたちちゃんと話し合いをしなかったのね。山名さんもバカだわ。なんでも自分で背負いこむんだから。本当に困った子よね」葉月はひときわ大きなため息をつく。辞めると退職届を渡してきた春花のことを、もう少し気にかけてあげたらよかっただろうか。そうだとしても、結果は変わらなかっただろうか。葉月は静をまっすぐ見据えて、事実を述べた。「店の前で事件があったでしょ。その事件のことを嗅ぎまわっているマスコミが店に来たの。そのときは追い返したけど、山名さんは自分のせいで桐谷静に迷惑かけたくない、汚点のない桐谷静でいてほしいって、責任を感じたみたいよ」「春花が汚点なわけないじゃないですか!」「そんなこと私だって知ってるわよ。だけど山名さんの気持ちもわかってあげて。桐谷静を誰よりも応援していたのは山名さんよ。だから自分の気持ちは押し込めて、あなたの背中を押したんでしょうね。それに山名さんの意思は固いのよ。悪いけど、私も山名さんと付き合いが長いのよ。私は山名さんの味方なの」フンと鼻であしらい葉月は仕事に戻ろうとして、もう一度静に向き合う。
何も手掛かりが掴めない静は、春花の勤め先の楽器店を訪れていた。「山名さんね、辞めたのよ」「辞めた?」素っ気なく答えられ、静は思わず語気を強める。自分の元に通う生徒たちを見捨てることができないと言っていた春花を知っているだけに、葉月の言葉はすんなりと信じられなかった。「春花のところに通っていた生徒さんたちはどうなったんですか?」「辞めてもしばらくはレッスンだけの契約で働いてくれてたのよ。でも時間をかけて生徒さんたちにも説明して別の先生に代わってもらって、今はもう来ていないわ」「それで、春花は今どこにいるんですか? 久世さんなら知っているんでしょう?」静は前のめりになる。春花の安否を確認するため葉月に電話をかけた時、「春花は元気だ」と告げられた。何かを隠しているようなかばっているような、そんな態度に違和感を覚えていたのだ。葉月は困ったようにため息をついた。もし静が春花を訪ねて店に来た場合、自分の居場所は知らせないでほしいと春花から頼まれていた。その場では了承したものの、葉月自身それが正しいのか分かり兼ねている。春花と静、二人でいるときの雰囲気は羨ましいほどにとても幸せそうに見えていた。だからこの先もずっと二人の関係が上手くいってほしいと願っていたのだ。
春花の消息を尋ねるには、勤務先の楽器店が手っ取り早い。静はさっそく電話をかけてみる。『お電話かわりました、店長の久世です』「桐谷静です。お世話になっております」『どうかされました?』「あの、春花と連絡が取れないのですが、春花はいますか?」『今日はお休みなの。でも元気だから心配しなくても大丈夫よ』「……あの、春花に連絡がほしいって伝えてもらえますか?」『わかった。伝えておくわね』「はい、すみません」ひとまず春花が無事でいることだけは確認でき、静は胸を撫で下ろす。ただ、音信不通になった理由は未だにわからない。そして葉月との会話にも違和感を覚えたが、彼女の変わらぬ明るい声にそれ以上の追求はできなかった。 どうにか最低限の公演を終え責任を果たした静は、その後に企画されているものはすべてキャンセルして日本に戻った。一刻も早く春花の消息を知りたかったのだ。久しぶりのマンションは、自宅だというのにしんと静まり返りひんやりとしている。まったく人の気配がない。「春花?」声をかけながら一部屋ずつまわるものの、そこに春花の姿はなかった。春花だけではない。猫のトロイメライもいないし、何より春花の荷物がひとつもなかった。まるで最初からその存在はなかったかのように……。「……どういうことだよ?」なぜあの時すぐに帰国しなかったのか。 すべてを投げ捨ててでも帰国すればよかった。「春花、どこに行ったんだよ!」静の叫びは誰に聞かれることもなく、そのまま冷たい空気の中に溶け込んで消えていった。
ピアノを弾くのは楽しい。世界中の人を魅了することは高揚感がありとても気持ちがいい。もっともっと上に行けるのではないかと思わせてくれる。壇上でもらう拍手は何物にも代えがたい宝物だ。だけど足りないものもある。 それは春花の存在だ。一度は失いかけた演奏の楽しさを、気づかせてくれたのは春花だった。いつだって応援してくれるのは春花だけだった。いくら有名になってもいくら賞を取っても、心のどこかで満たされないものがある。それは隣に春花がいないことだ。静はそれにようやく気づいたのだ。静は春花に電話をかけたが留守電につながってしまった。それもそのはず、時差があるのだ。春花とは時間を合わせないと、仕事中だったり深夜だったりしてしまう。静は自分の浅はかな行動を恥じ、また明日時間を見計らってかけ直そうと気分を落ち着けた。だが翌日になっても、大丈夫だろうという時間にかけても、留守電にメッセージを入れても、一向に春花から返事が来ることがなかった。そしてさらに数日後には電話も繋がらない、いわゆる音信不通になってしまったのだ。嫌な予感がした。 いや、嫌な予感しかしない。まさか倒れたとか? また襲われたとか?そんな不安が過る。今すぐにでも日本に戻って春花の無事を確かめたい静だったが、次の公演はもう決まっておりそれを投げ出すとなると多くの人、企業に莫大な迷惑がかかる。天秤にかけるようなことはしたくないが、社会人としての責任感も簡単には捨てられなかった。
◇祝賀会は一部マスコミの入場も許可されており、主役の二人が壇上に上がることになっていた。メイサは自然と静の腕に手をかける。ぴったりと寄り添い、離れるつもりはないようだ。静は振り払いたいのを我慢しながら、渋々そのまま壇上までエスコートしていった。わあっと歓声が上がり、「やっぱりお似合いよね」などという声が上がる。まわりに囃し立てられ気分を良くしたメイサは、ますます静に体をくっつける。「ねえ、私たちもこのまま恋人になりましょう。二人ならきっと素敵な音楽が奏でられるわ」「俺には恋人がいるって言ってるだろ」「何言ってるのよ。これから海外公演が増えるのよ。日本に帰らないのに待っててくれるわけないじゃない。それにあの子、身を引くって私に言ったのよ」メイサの発言に静の思考が一旦止まる。春花とメイサに接点などあっただろうか。「……どういうことだ? 春花に会ったのか?」「ええ。静の夢を邪魔しないでねって忠告してあげたの。おかげで海外公演も大成功よ。感謝しなくちゃね」「は? ふざけるな。俺はもうメイサと弾く気はない」「何言ってるの? これから私たちはもっと有名になっていくのよ。とても栄誉なことだわ」「栄誉なんていらない。俺はそんなもの求めていない」「じゃあどうして海外に来たの? 有名になるためでしょ? 私たちなら世界中に名を轟かせることができる。それの何が不満なの?」「不満に決まってる!」静は吐き捨てると、そのままメイサの元を去った。祝賀会もどうでもよくなった。
抱いていた恋心が数年越しの再会と共に実り、静と恋人になれたことが嬉しかった。 短い間だったけど、一緒に暮らせたことも幸せでたまらなかった。 ずっと一緒にいられたら……なんて考えるだけで未来が明るいようで心が軽くなった。だけど、静の夢を一番に応援しているのも事実。静の背中を押し海外に送り出したのは、彼に広い世界で輝いてほしかったからにほかならない。そんな春花の予想通り、静は海外で着実に実績を上げて活躍の場を広げていっている。本当に凄くて誇らしくて、涙が出そうなほど感動する。でもその一方で、自分の情けなさに胸が潰れそうになる。一生懸命やってきたピアノの先生も、左手首の捻挫から思うようなレッスンができなくなった。完治しているのに、いつまでもあの事件が頭の片隅で燻るのだ。そしてそのことで静にも店にも迷惑がかかっている。この状況に、春花の心は耐えられそうになかった。自分の存在がリセットできたらどんなにいいだろう。何もかも忘れて新しい世界に生きられたらどんなにいいだろう。そうやって考えるようになって、自分は心が病んでいるのだと気づき始めた。「それでこの先どうするの?」「ちょっとゆっくり休んで考えていこうかなって思っています」「大丈夫なの?」「大丈夫です、ちゃんと自分の将来も考えています。それでひとつお願いがあって……」葉月は春花の意思を汲み取って、今回は退職届をそのまま受け取った。ただ、上司として春花の心の闇に気づいてあげられなかったことが悔やまれ、申し訳ない気持ちになった。
「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」
家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。